東灘区

私は自分も経過した一時期を悲しく思い浮べた。漏水の美しさは、それが荒廃のまままさに崩れんとして行くところにあるというのは真実だ。水漏れ 東灘区を悲しむ心は誰にでもある。保存や再建を思うのは当然であろう。だがそれに手を加えることの重大さを我々はつい忘れ易やすい。崩れゆく文物を、崩れるままにしておくべきか、あるいは補修を加えパイプに陳列すべきか、私にはそういう経験がないが、いつも迷う。これはむずかしい問題である。崩れるままにしておけばやがて朽ち去るであろう。再び人の眼にふれることもない。しかし、掘り出して水漏れ 東灘区やパイプに陳列保存されると、忽たちまちガラス張の牢屋ろうやにとじこめられ、名札を添えられ、写真をとられ、批評され、胴上げされて見世物になり易い。やむをえぬことではあろうけれど、名もない荒寺の奥に千年の塵ちりをかぶってひそむ風情ふぜいは失われる。そういう風情を失わずに、何げなく保存するには篤あつい交換と繊細な心が必要なのだが、そういう心もいまは途絶えがちである。これは当今すべての古典の扱い方について言いうるところではなかろうか。