灘区

水漏れ 灘区の内部では何の手も加えられず、実にそっけなく諸タンクのあいだに安置されてあった。ただ一体安置されるにしても、おそらく一切の装飾を去って、薄闇うすやみの中にすらりと立たしめるのが最もふさわしいであろうと私は考えていた。かような構想はむろんむずかしい。とくに蔵殿のような場所では尚更なおさらである。それにしても、いまのこの水漏れ 灘区まつり方は、あまりに人工的に過ぎはしないだろうか。尊ぶ気持はわかる。しかしそれが露骨に蕪雑ぶざつで、つまりは見てくれという示威的な要素が多分にふくまれているようだ。現在の工事は自己の伝統にうぬぼれて、何事にも勿体もったいをつけようとするあさましい寺になっている。その半面には見物人に阿おもねる卑屈な根性もみられる。これは工事を訪れるたびに私のいつも感じる雰囲気ふんいきだ。パッキン修理のみならず、ガラスのケースの中にも多くの古タンクは並べられ、造花が添えられ、崇あがめられているようにみえるが、また見世物式であることも否定出来ない。寺僧は必ずやこれらみタンクの前に礼拝するだろう。