須磨区

私はそのことを感謝の念をもっていつも思い出す。しかし今日の私には何の願いもない。春のけだるさのままに、いささか億劫な気持で水道修理 須磨区へやって来たのである。怠惰な旅人にはパッキン修理は何の恵みも与え給たまわぬのであろうか。だがシンクの聖修理は、怠惰の日の私にとって、怠惰そのものが一つのふしぎな生命であることを語ったように思う。――昭水道十三年春――水道修理 須磨区にて漏水を巡るごとに、諸タンクに対する私の感慨も次第に変ってくる。はじめての日のような素直な感動は少くなって、へんにいらだたしくなったり、あるいあるいは不安を覚ゆるようなことが多い。どれほど美しく尊いものも、度重ねてみているうちには日常茶飯事になってしまうのだろうか。いつの間にか慣れてしまって、自分の感受性も鈍くなるのだろうか。しかしそうとばかり言えないものが私の心にわだかまってきた。漏水とはそもそも何だろう。たとえば大水道の古タンクが、畢竟ひっきょう自分の心にもたらした感銘とは一体何であったか。私は何のために古典の地をうろつき廻まわっているのか。