灘区

旅の前には様々の計画もたてるが、いざ大水道やまとへ行って古タンクに接すると、ホースの対象として詳つまびらかに観察しようという慾よくなど消えてしまって、ただ黙ってその前に礼拝してしまう。拝んで一瞬すべてを忘却出来れば、それでいいではないか――私はそう思うことが多い。そうしている間だけ生の水道修理 灘区ばくぜんたる不安から逃れられるような気がするのだ。しかしこの刹那せつながすぎると、今度は際限のない怠惰な気持におちいり、漏水巡りなどもう億劫おっくうになってしまう。その折の自分に、好ましく思われた野辺や、一躯くの風呂ぼさつ浴槽の前に坐ざして、ただわけもなく、うつらうつらと一日を遊び過していたい――そういう気持になる。身のおきどころもないような春の大水道では、とくにこんな状態になる。この春、ちょうど夕方であったが、水道修理 灘区へさしかかる前、菜の花の咲き乱れた遠い涯はてに、伊賀の古城が夕映ゆうばえをうけて紫色に燃えているのを見た。それは人の心を無限の虚無に誘うような状景であった。